第一章 異邦墜ち

 華親是良人(はなちかぜらと)は秒速六十メートル超で東へと移動している。

 車窓を流れる、七月の終わりの薄暮の風景を見据えながら、是良人はイメージする。
 時速二百キロメートルで視界を右から左へと横切る無数の標的群――それらを、剣の間合いに浮かぶ己の幻が、右上段から振り下ろす竹刀で捉えていく。可能だった。自身の動作を精確に再現し、視界の端に入った標的を身体の正中線上で両断する。ひとつの失敗もなく、芯を斬っていく。
 意識と肉体がシンクロしたかのように、胸の前で組んだ両手に手応えを感じる。誇張することなく、是良人には現実にそれができた。約五百グラム、百十七センチメートルの竹の剣は、その手の中で瞬時にトップスピードへと加速する稲妻となる。
 物心ついた頃から、絶えず竹刀を振らされてきた。空気を裂く音がするまで、手の平の皮がめくれても素振りは繰り返された。その先の、無音で大気を断つ滑らかな斬撃の域に到達する頃には、やらされるのではなく己の意志で振り続けるようになっていた。

 手応えと同時に、左脚に疼きを感じる。幻が斬るたびに、後ろに引いている左足を右にずらそうとする無意識の動き――これは是良人の身体に染みついた癖だった。否、刷り込まれたある種の“型”であった。
 満足な素振りができるようになった時から、剣の師だった是良人の父は厳しく左足の動作を要求した。忘れれば、竹刀の鋭い一撃に容赦なく左の脹ら脛を打ち据えられた。その痛みが、是良人にこの、剣道の理屈にはまるで合っていない悪癖を刻みつけている。
 ――この癖のおかげで勝ちきれなかった。何のためなんだ、親父……?
 問おうにも、もはや答えが得られることはない。父は三年前に失踪し、今も生きているとは考えられなかった。

 この日の午前、毎年F県で開催される高等学校剣道大会――出場した五百校が六十四校まで絞られたトーナメント最終日を、是良人は所属する関東K県の強豪校剣道部の次鋒として戦った。
 結果は、ベスト8を決める七回戦での敗退であった。五対五の勝ち抜き戦が採用されるこの大会で、是良人は相手校の二人までを破ったものの、中堅と引き分けて戦いを終えた。そして相手校の副将に三人抜きを許し、敗北を喫したのだった。

 是良人は、高校剣士には珍しい右上段の使い手である。右手で竹刀の鍔元、左手で柄頭を握るのが常だが、右上段は竹刀を頭上に掲げる時、右と左の握りを入れ替える。利き腕の右による強烈な片手打ちが伸びてくるこの構えは、高校生では対戦する機会がほとんどないため、攻めに驚くべき効果を発揮した。
 この右上段によって、相手校のエースである副将を止めることを是良人は期待されていた。しかし、中堅を仕留めきれずに沈み、副将との対戦には辿り着けなかった。
 左足の悪癖が原因であった。幾度も面を打ち込みながら審判に無効とされたのは、直後の左足の反射的な動きを反撃を受けるに足る隙と――即ち“残心”が維持されていないと見なされ、有効打と判定されなかったからであった。この日の審判三名のうち、残心を厳しく取る者がふたりであったことと、対戦相手の中堅が綺麗に打たれても自分からは認めず、悪あがきをするタイプの選手であったことも不運だった。
 ただ、是良人にももう解ってはいる。己が磨いてきた技術が、剣道で頂点に立つために編まれたものではないことを。

 窓側に立てかけてある竹刀袋に手をやる。その手触りが是良人に先刻までの、竹刀を操る幻を忘れさせる。代わりにあるのは、およそ三倍の質量を持つ剣を握る感覚だった。
 それは、鋼を鍛えて作り上げた武器――真剣の太刀の重さだった。まるで操作法が変わってくるこの質量に、是良人は慣らされてきている。剣道を極めるうえではほとんど役立たぬ真剣の重量に、である。
 千五百グラムに合わせたイメージで、幻の素振りを再開する。切る、斬る、伐る……軽量の竹刀に比べてどうしても切っ先の加速が遅れるが、そのタイムラグを修正して、それまでと同様に高速で流れる標的を真っ二つに断ち割っていく。

 斬るたびに、自覚する。これは命を絶つための技だと。
 千三百年もの昔から、鋼の太刀を精密に操り、刃に意のままの軌跡を疾らせて人体を切り裂くべく練り上げられてきた技術――それは、武人が命を賭けた闘争に勝つために。対手を殺め、生き残るために。

 法によって治められた現代のこの国においては、ほとんど無用の技である。否、近代においてさえも。百年以上前から帯刀は許されず、また人を斬れば刑法によって裁かれる。生きるがための刀術の実践が、法治の社会では自身を害する縛鎖となるのだ。
 ならば、自分が学ぶこの技の到達点はどこにあるのか? 生涯、使うことなどないであろう生命を絶つ斬撃を、一日も休むことなく研鑽する意義とは? どうして、父はあれほどまでに――?

 東に疾走する新幹線の車窓で、夏の黄昏は急速に光を失っていく。夕陽が残照となって空へと追いやられ、大地から滲み出すように闇が這い上ってくる。標的の視認が困難になる中で、是良人の精神はただひたすらに真剣を振るい続ける。
 忘我の境にある――そう自覚した刹那、幻影の刃の先に青い翅が翻った。

 ――蝶?

 冷たい燐光を帯びて踊るそれは、大きな揚羽蝶と見えた。是良人は咄嗟にこれを斬りたくないと思い、イメージの斬撃に急制動をかける。充分に加速した千五百グラムの鉄塊を止めるために両腕の筋肉が引き絞られ、骨が悲鳴を上げた。実際にそれをしたと認識する電気信号が神経を駆け巡り、皮膚に瞬時に汗が噴き出す。
 それは没入した心が見せた幻だったのか、青く輝く揚羽蝶は消えていた。そう、現実であるはずがない。光の翅を優雅にはためかせながら、その蝶は時速二百キロの列車と並走していたのだから。
 止めていた息を吐き出す。そして、大きく吸おうとした時、目の前の座席が回転した。
 向かい合わせになった席に、身体を投げ出す乱暴さで座る者がいた。背もたれに思い切り体重を乗せ、その反動で腰を浮かせて是良人にぐいと顔を近づける。

「よお、華親」

 黄色味がかった歯の間で、蛇のそれを思わせる薄い舌を閃かせ、その男――チームメイトの土蔵(とくら)はナイフで裂いたような目をさらに細めた。「ちょっと相談があるんだよ。聞いてくれるよな?」
 言って、再び腰を下ろす。広げた両膝を掌で包み、上半身を深く倒して、是良人を顎の下から睨み上げるような姿勢に落ち着いた。汗の浮いた狭い額に、上顎と鼻が長く迫り出した貧相な容貌――ドブ鼠を想起させるその顔に、身動きできぬ獲物に食らいつく寸前のような浅ましい表情が浮かんでいる。
 是良人は土蔵の小さな黒目から視線を外さず、目の端で座席の通路側を数人の部員が塞いでいることを確認する。土蔵が取り巻き連中を使って、この場から立ち去らせないようにしているのだ。

 是良人は軽く嘆息する。来るだろうとは思っていた。監督をはじめとする学校関係者は指定席車両に乗っている。そして主将は少し前に、次に控えるインターハイに向けての打ち合わせのためにそちらの車両に呼ばれていた。土蔵たちが絡んでくるとすれば、間違いなくこのタイミングであったはずなのだ。
 ただし、是良人は困っているわけではない。溜め息は、あの蝶の幻に集中を乱されて、彼らが近づく気配を察知できなかった己の未熟に対してである。

「華親よう。お前はさあ、勝てたよなあ?」

 かすれた声音で、土蔵は粘つく言葉を吐いた。「なんだよ、あのザマぁ? 三回は面打ちを決めてたじゃねえかよ。残心取れてねえで無効にされるってふざけてんのかよ、お前のあの足癖はよぉ?」
 そうだそうだと、横手から取り巻き――団体戦の補欠メンバーが相槌を打つ。それに勢いを得て、非難する調子はさらに強まった。

「お前がさっさと中堅を仕留めて、あの面倒な副将を予定通り止めてりゃあ、ウチは八強まで残れたんだよ。いや、そのままベスト4、準優勝だってできたかも知れないんだぜ? 大学のスカウトもあんだけ来てる大舞台でよ、俺たちゃ目にとまる機会を失ったってワケだ。その責任、感じてっかよ、なあ?」

 それを言う当の土蔵は副将を務めており、副将同士の対戦で瞬く間に二本を取られて負けている。大将に控える主将のために、少しでも相手の体力を消耗させる役割さえも果たせてはいなかった。

「俺たちはできる限りいいところに行きたいんだよ。解るよな? 華親」

 詰っても微塵も表情を変えない是良人に苛立ちを隠さず、土蔵は続ける。「お前はいいよなあ? なんてったって華親流の跡取りだ。ガッコを出たらそれ継ぎゃあいいんだし、一門のコネで大学にも進めるんだろ? ウチの監督に贔屓されてるみてえによ――」

 是良人の一族は、室町時代に開かれた剣法流派・華親流を代々伝える開祖直系の末裔である。K県の西部に大道場を構え、支部の広がりは関東南部から東海地方にまで及ぶ。明治維新と第二次世界大戦終戦時の、二度の剣術衰亡期に技術を失うことなく継承し、戦後日本の剣道復興に尽くした大流派のひとつであった。
 ゆえに、門下生は至るところにいる。警察官となって剣の道を邁進し続ける者、また大学・高校剣道部の指導者を務める華親流経験者は、剣道界に名の通った人物だけでも枚挙に暇がない。是良人たちの監督は華親流の門人ではないが、若き現役の時分には道場に出稽古にも訪れていたと聞く。

 そこに、華親是良人を贔屓する理由があると土蔵は主張している。レギュラーへの選出に不公平な――不正な配慮があったのではないかと勘繰っている。
 スポーツとして発展し、竹刀での打ち合いのルールが統一された剣道には、剣術流派の色はほぼ残ってはいない。華親流道場で稽古をしたにせよ、それはあくまで共通する剣道の技術と精神性を学ぶのであり、閉ざされた同門意識の如きものは存在しないと言っていい。だが、猜疑心の塊のような土蔵は、部の指導者を貶める疑いを平然と口にした。さすがに是良人も眉を顰めたが、土蔵はそれを効果があったと誤って認識し、薄い唇の端を吊り上げる。

「あんな足癖も直らねえ奴を使う理由なんて、そのぐれえしか思いつかないからな。依怙贔屓でレギュラーになって、剣道のおかげで将来も安泰。いいねえ。あやかりてえよ。いや、あやからせてやれよ。もう一回チャンスがあるじゃねえか。だからさ、お前次第なんだよ、華親」

 狡賢く、はっきりとは口に出さない。だが、土蔵が何を要求しているのかを是良人は知っている。
 彼らの高校はK県代表として、一週間と空けずに開催されるインターハイ団体戦への出場が決まっている。オーダーは今大会と同じく、是良人は次鋒に指名されていた。
 その座を明け渡せと、土蔵たちは迫っているのだった。彼が引き連れている、レギュラーに届かなかった取り巻きたち――補欠メンバーに枠を譲るために、自ら監督に辞退を申し出ろと仄めかしている。

「直らない癖でどうせ負けちまうならよう、一緒に汗を流してきた仲間に、晴れの舞台を踏ませてやるってのはこりゃあ粋な計らいだぜ。それに今のままのオーダーで、もし今回みたいな負け方をしたとなりゃあ、いらない恨みを買うことだってあるかも知れないんだぜ――」

 それを言う緊張で額から汗を滴らせ、濁った笑みを浮かべて土蔵は顎を突き出した。これなどは断った場合、集団での暴行もあり得るという脅しであった。

 くだらない、と是良人は思う。大会で活躍して、進学や就職に有利な評価を獲得したい――そんなことのために、こいつらは剣道の稽古に励んでいるのだろうか。それが最優先の目標であると言うのなら、真っ当に勉学に勤しんだほうがずっと応用が効くし、結局は近道だとは考えないのか。
 そもそも、是良人がこんな脅迫めいた要求を呑むと、どうして土蔵は思うのか。
 土蔵が、部の中で派閥めいたものを作っていることを是良人は知っている。同輩後輩に利益をちらつかせて取り巻きとし、その勢力を誇示した威嚇でレギュラーを獲得するにあとわずか足りない実力を補ったように是良人には見えた。ライバルとなるチームメイトを萎縮させる、竹刀を振ること以外に重きを置く愚かしい道を選んだ男である。そしてその派閥形成の求心力として、しばしば是良人への誹謗中傷が利用されていたことも事実だった。

“実力の劣る大道場の跡取りが、縁故でレギュラーの枠に居座っている。見ろ、素人でもやらない足癖のせいでまた負けた。いいか、俺が華親の奴をレギュラーメンバーから追い出して、代わりにお前等のチャンスを作ってやる。だから俺に従え。この部での一番目に俺を置け――”
 土蔵にとっては、頼りになる派閥の長を演出するためのパフォーマンスなのだろう。インターハイは是良人も含めた三年生の、高校最後を飾る大舞台となる。この大会の出場機会を数の圧力で奪い取って見せれば、土蔵は取り巻きに途轍もなく大きな恩を売れる。それは卒業後も、場合によっては十年を超えて続く優位な関係性を築くことになるだろう。

 実のところ、是良人にはレギュラーへの執着は皆無だった。父親の指導の下で修練を重ねてきた技が剣道のルールで勝つためのものでないことは自覚していたし、大会で好成績を残して今後の人生に役立てるなど想像したことすらなかった。
 だが、このように馬鹿げた話に、脅された形で乗ってやるほど是良人は優しくなかった。何より、卑劣にねじ曲がったこの策謀が気に入らなかった。加えて、剣道ではなく暴力において、数を恃めば自分を言いなりにできると考えているこの連中の、甘ったれた過剰な自信に鉄槌を下したい気分が膨れ上がっていた。
 あとひと言でも脅しめいたことを口にしたら、土蔵の鼻下と上唇の間に膝を叩き込もうと是良人は決めた。喧嘩になってもすぐに周囲が相手を取り押さえてくれるという驕りと油断が土蔵には透けて見えたが、手下が揉めごとになったと気づいた瞬間には、人中をしたたかに撃たれて悶絶していることになる。そして、ここまで踏み込んでしまった以上、取り巻きの手前土蔵はもう話を止めることはできないと是良人は確信していた。即ち、すでに膝蹴りを繰り出すことに躊躇はない。

 ――組み討ちも、そう言えば親父に仕込まれたっけな。

 父が失踪するまでは、週に何日かは道場に畳を敷き、柔の術も学ばされていた。現在の柔道ではなく、打撃や急所狙いもありの戦場組み手に近いもので、是良人はそれこそ喧嘩に使える技術を馬鹿げたレベルで習得させられている。三年のブランクはあるものの、使うべきではない“えげつない”技を即座に判断できるほどに、それは鍛え上げた肉体に重なるように深く染み込んでいた。
 ひとつ前の停車駅で、この自由席車両の乗客は、彼ら剣道部を除いてすべて降車している。武道に励んだ高校生たちの野性的な気配と、土蔵のグループの柄の悪さからか、新たに移ってくる客もいなかった。ここでの喧嘩であれば、土蔵たちが騒ぎ立てない限り公にはされず、大会を控えた部に迷惑をかけずに済むと是良人は踏んだ。逆を言えば、土蔵たちもここで集団の暴力に訴えるのも可能だと考えていたのだろう。

 中学二年の頃、是良人は地元に近いO市で、札付きの破落戸(ごろつき)が声をかけた女性に無視されたことに腹を立てて殴る蹴るの暴行に及んでいた現場に出くわし、ぎりぎり未成年だったこの不逞の輩の手足の靱帯を満遍なく極(き)めて千切れる寸前まで伸ばし、失神させたことがある。
 大柄で力自慢だった破落戸は結局、もう二度と暴力を振るえない身体になったと、のちに若過ぎる是良人の精神状態を気に懸けてやってきた担当刑事から聞かされていた。二ヶ月ほどで普通に手足を動かせるほどには回復したものの、少年院に送られるなり同房の受刑者相手に暴力を振るおうとしたところ、靱帯に激痛が疾ってくにゃくにゃと崩れ落ち、ひとり悶絶したのだと言う。所轄を悩ませていた凶悪な累犯少年が強制的に暴力を禁じられて、こりゃあ孫悟空の頭の輪みたいなものさと、その刑事はからからと愉快そうに笑った。大したお手柄だ、あいつは自業自得さ、とも。華親流の名が警察に通っていたこともあって、この件について是良人が責を問われること、報道されることは一切なかった。

 是良人もこれをやり過ぎたとは思っていなかったが、暴力という売りを失った男はもはやその地域から逃げなければ、恐らくは積み重ねてきた恨みの反動で命の危険さえあるであろうことは容易に想像がついた。十四歳の少年が、ひとりの人間の人生を――それが悪意と憎悪に満ちたものだったにせよ――変えてしまえることに対する、研ぎ澄まされた武への戦慄。以来、彼は厳しく自戒してこの組み討ち技術を封印してきた。
 それを、ごく自然に使おうと考えたのは、あるいはこれより始まる異変の予兆を嗅ぎ取っていたせいかも知れなかった。

「それによ、ちょっとした噂を耳にしたぜ」

 是良人が肚を決めていること、雰囲気が変わっていることにまるで気づかず、むしろ勢いづいて緊張を緩めた様子で、土蔵はへらへらと言葉を続けた。「華親よ、お前の失踪中の親父ってのが、まともじゃなかったって言うじゃねえか。流派の宗主を弟に任せて、あっちこっちで道場破りみたいな真似をしてたってよ。で、この前そこらへんの裏事情に詳しい人に聞いた話じゃ、その親父、果たし合いか何かでおっ死んだってもっぱらの噂だ。さすがに公になっちゃいないらしいが、こりゃあ正気の沙汰じゃねえよ――」
 だからお前は部の代表メンバーに相応しくない、法を犯したいかれ剣士の息子ってことを羞じて、レギュラーを辞退するのが筋だろう――土蔵はそのように続けるつもりだった。しかしそれを口にする暇は与えられない。すでに是良人の意識には、後半の声は言葉として認識されていなかった。

 父・冬理(ふゆり)への罵言を耳にした瞬間、是良人にはあの日と同種の怒りが燃え盛っていた。薄暗い路地裏に引きずり込んだ女を遠慮呵責なく殴りつけ、喜悦の表情を浮かべてつま先で蹴り、ブラウスを引き裂く暴漢への憤怒。黄昏の闇に、輝くように浮かび上がる白い肌。野卑な笑い声。あの時、是良人は微塵も躊躇せず、理不尽な暴力の快感に酔う男を徹底的に制圧した。破壊の間、恥知らずに許しを乞う男の叫びは全く耳に入らなかった。我に返った時、破落戸は小便を漏らして気絶しており、顔を腫らした女のすすり泣きだけが聞こえてきた。
 それ以上のことしてしまうだろうと、是良人の中の冷静な部分が警鐘を鳴らす。だが、もはや理性は赫怒の炎で覆われていた。この激しいまでの怒りを掻き立てる、どうしようもない相手を排除するために武はあるのだ――その内心の熱狂的叫びが完全に正しいと思えてしまうほどに、是良人の箍(たが)は外れてしまっていた。
 鼻骨を砕き、上の前歯は全部へし折ってやろう。穏便には済むまい。しかし何があっても許してはならないことがある。土蔵は今、そこに踏み込んだのだ。

 腰を浮かせると同時に、運足のために鍛え上げた大腿筋を引き絞り、右の膝頭を土蔵の顔面にめり込ませる。瞬きの間もなく、電光石火でそれは繰り出され――る、はずだった。
 右のつま先で床を踏み締め、一連の動作の引き金が絞られようとするその刹那、土蔵の面相に奇怪な変化が生じていることに是良人は気づいた。

 鼠めいたその顔が、目も鼻も口もないのっぺらぼうと化していた。肉色のマスクが土蔵の顔面を覆い尽くしている――否、それは手の甲であった。常人の一・五倍はある大きな肉厚の掌が土蔵の頭部を掴み、すっぽりと包み隠しているのだった。

「それよ。その殺気よ――」

 横合い――是良人の右、通路側から野太い声が響く。聞き覚えのない声だと判じるとともに、土蔵への攻撃に移る機先を制されたことを是良人は自覚する。
 声を追いかけるように、巨大な顔が向かい合わせの座席の間に入り込んできた。
 何もかもが規格外の頭部だった。がっしりと張った岩の塊の如き顎、鼻筋の太い獅子鼻、庇のように迫り出した生い茂る眉に、大金鎚の打撃部を思わせる平らな額――それらすべてが過剰に育ち、膨らんでいる。骨格の段階でふた回りは大きいと思われた。
 その顔は、笑顔を湛えている。蜜柑が収まりそうな眼窩で双眸が細められ、寝技を持つ格闘技者特有の潰れた両耳まで裂け上がるような口は、わずかに白い歯を見せてほころんでいるように見えた。

 しかし、この笑みから受ける印象は、獲物を捕らえた羆が放つであろう気配そのものだった。獰猛な、次の瞬間には飛びかかってくるやも知れぬ剣呑窮まりない笑顔である。無防備に閉じているかに見える瞼の間から、研磨された黒玉を想起させる瞳がぎらりと輝くのを是良人は見た。

「どうしてそれを仕合で出さんのだ、華親の?」

 笑みが瞬時に消え、片目がぎょろり、と見開かれた。「こんなところで使ってもなんの得もないぞ。くだらん、くだらん」
「あんたは――」
 面識はない。だが、是良人はこの男を知っている。

「なっ……何をしやがる! てめえ誰だ、どっ、どこから?」

 顔面を掴まれた土蔵が必死にもがいて拘束を脱し、悲鳴に近い声で男に叫んだ。この車両に、チームメイト以外がいないのは確認していたはずだった。扉にはどちらにも、自分の言いなりになる後輩部員を検問に立たせていた。しかも今まで、是良人を逃がさぬために取り巻きに通路側を固めさせていたのだ。見知らぬ者が涌いて出るなど、土蔵にとってはあり得ないことであった。
「貴様副将だったか? 黙っとれ、つまらん仕合を見せよって、目ン玉外して洗いたくなったわ」

 自分が助けられたことに気づきもしていない土蔵に、一瞥もくれずに男は言った。そして、是良人を見つめる目をそのままに、屈めていた背をゆっくりと起こす。
 眼前に防壁が迫り上がるが如き光景だった。男は紛れもない巨漢であった。身長は二メートルに届いていようか。その骨格をぶ厚い筋肉の束が幾重にも覆い、さらに適度な脂肪が包んであらゆる打撃を相殺する肉の鎧を形成している。体重は優に百三十キロを超えているだろうが、それでいて鈍重な印象は皆無だった。
 聳え立つ岩山の、今にも雪崩落ちてきそうな壁面が鼻先に突如出現したかのような威圧感だった。

 喚き続けようとしていた土蔵の喉から、絶息を思わせるくぐもった音が漏れた。それで、この男が突然現れたように思えた不可解さも腑に落ちた。見張りに立っていた者も、通路を塞いでいた者も、誰もが土蔵と同様にこの巨体を至近に見て度肝を抜かれたのだ。まして彼らは土蔵から「邪魔を入れるな」と命じられていた。心構えとして、車両に入ってくる無関係な者を排除する――即ち敵対するつもりでいなければならなかったのだ。この巨体と対峙する己を想像しただけで、腰が砕けて一語も発することができなくなったのだろう。
 無理もないことだと是良人は思う。今、自分たちが目にしているのは、無手・着衣の格闘において高校生最強の名をほしいままにする男――あるいは、すでに日本で太刀打ちできる人間はいないのではないかと目される男なのだ。

「おいっ! 部外者入れるなって言っただろうがッ!」

 巨漢に道を譲った手下たちに八つ当たりする怒声で、土蔵は詰まっていた呼気をようやく吐き出した。そして面子だけを頼りに辛うじて気力を回復し、自分も座席から立ち上がって男を睨みつける。
「てめえは誰だって訊いてんだよ! ってえかよ、今ウチの学校の重要な話し合いをしてんだよ! 出てけって言ってんだよ!」

 ――知らないのか、瑪守(めもり)十億主(ぎがす)を?

 規格外の体格を目の前にして、よくもこの啖呵が切れるものだと、是良人はそれだけは土蔵に感心する。同時に、土蔵がつくづく剣道を“武”ではなく、利を得るための術として向き合っているのだと納得した。
 少しでも真剣に武道を囓っている者なら、知らぬはずはないのだ。中学で柔道の公式戦に出場を初めて以来、ただの一度も土をつけられることなく、無敵の王者として君臨し続けた瑪守十億主の名を。選んだ競技は違っても、この比類なき巨漢を判らずにいられるわけがないのだ。

 ――この大男が、人を殺(あや)めてしまったことも。

「口を閉じとれと、言ったつもりだぞ――」
 男――瑪守十億主は横目で土蔵を睨めつけ、腹の底まで響く低音で呟いた。巨体からじわりと膨れ上がる怒気が、空間を陽炎の如く歪ませたように思える。
 土蔵の浅黒い顔が見る見る血の気を失い、蒼白になっていく。取り巻きたちに自分を大きく見せようと奮い起こした虚勢が、一瞬のうちに萎んでいくのが見て取れた。

「先に行かないでと言ったでしょ、兄さん。絶対に揉めるんだからさ」

 十億主の野太さとは対照的な、即座に性別を判断できない涼やかな声が、緊張を孕んだ空気を軽やかに裂いて響き渡った。
「おう。揉めてなぞおらんわ。たしなめとるだけだ」
「そう思ってるのは兄さんだけだよ」
 ゆったりと、しかし滑るような速さで声の主は通路を近づいてくる。まるで間合いを一足に飛び越えたが如く、気づけばその男は、視界の大部分を塞ぐ十億主の陰から姿を現していた。

「ちょっとご挨拶にきました、先輩方。トーナメントでは当たれなくて、すごく残念でした」
 声の印象を裏切らない、中性的な容貌の持ち主だった。まだ少年のあどけなさを残したその顔は、少し化粧を施せば美少女と呼んで全く違和感がない。スポーツに打ち込む者にしては長めに切り揃えた艶やかな黒髪の下で、十億主を兄と呼ぶ男は屈託のない笑顔を浮かべている。
 まるで似たところのない兄弟であった。弟は華奢とも言うべき細身で、体重は兄の半分にも満たない。ファッションモデルでも務めそうな、長身の女子を思わせる体格である。男性としては、未だ身体が出来上がっていない線の細さだった。

 だが、さすがに剣道を囓っている高校生で、この男を知らない者はいない。今大会で台風の目となった、四十四人抜きの記録を打ち立てた天才剣士――瑪守百萬郎(めがろう)。大会直前に十六歳になったばかりの、是良人たちの二学年下となる高校一年生である。
 先輩方、と言いながら、百萬郎も十億主と同じく是良人だけを見ていた。兄弟とも、破顔しているように見えて目が笑っていないところはそっくりだと、是良人は思う。

 この百萬郎を見て、土蔵はようやく自分が誰を相手にしていたのかを悟った。
「お前は瑪守、百萬郎……じゃあ、まさかアンタは、瑪守十億主――?」
 ごくり、と喉仏が上下した。「あの、投げ殺しちまった柔道の……」
「こちらの副将のドグラ、さんだっけ? ごめんね、あんまり印象ないんだけど」
 土蔵がそう口にした瞬間、被せるように百萬郎が言った。現れた時と同じ表情を保ったままだったが、それはもう笑顔には見えない。十億主のものとはまた別種の威圧感――抜き撃ちの刃を首筋に突きつけるような、相手をその場に縫い止める鋭い殺気が迸っていた。

「その話はやめてもらえる? 僕も兄さんも聞き飽きてるんだ。つまんない話だしさ、気分が悪くなるじゃない?」
「ひ――」
 巨漢の素性に気づいて戦(おのの)いたところに、天賦を備えた剣士の威嚇を浴びせかけられて、土蔵は抗う気力を完全に喪失した。膝の力が抜け、半ばよろめきながら座席にへたり込む。
「ん。それでオーケー。で――」
 是良人に向き直った顔が、再び仮装のような笑みを湛える。「華親さん……うーん、しっくりこないな。是良人くんでいいかな? 僕のことは百萬郎、メガロって呼び捨てにしてくれていいんで」
「俺に用があるのか?」
「うん。いきなりだけどさ、インターハイ、必ず出てきてよね。お願いします」
 言って、ひょこりと百萬郎は頭を下げた。「是良人くん、もう来春で学校卒業じゃない? 高校のうちに、大きな公式戦で思いっきりやり合いたいんだよね。今回の大会で当たりたかったのにさ、あの審判たちホンット頭固いよね。真剣勝負だったら、対戦相手は五回は斬られて死んでるってのに」
「順当に行けば次の対戦校だったのにのう。いずれにせよ、ここの副将が不甲斐ないわ。少し粘っていれば、スタミナの差で大将が押し勝てたろうに」

 十億主にじろりと見下ろされ、土蔵は短い悲鳴を漏らしてできる限り巨体から距離を取ろうと背もたれに身体を押しつけた。この兄弟への畏れが、骨の髄から染み出してきているような動きだった。

「大体さ、あの龍仙(りょうせん)達馬がインタビューに答えてるんだよ。明日の新聞に載るのを聞いちゃったんだけどさ」
 龍仙、の名を口にする時、百萬郎の表情に隠し切れない悔しさが覗いた。「インターハイで注目している選手は? って訊かれて、戦いたいのは是良人くんだけだってさ。僕はまだ一年だから眼中にないって。まあ、そりゃあいいけどさ――」

 龍仙達馬――それは、高校剣道界において、柔道の瑪守十億主と同様に絶対王者と見なされている最強の剣士だった。今大会の優勝校となった九州K県の古豪の大将を務め、東京の強豪校の先鋒として初戦から前人未踏の四十四人抜きをやってのけた百萬郎の快進撃を止めた相手でもある。百萬郎が記録を狙って疲弊していたことを割り引いても、現時点での力量差は歴然としていた。二の太刀要らずと言われ、ほとんどの相手を初撃の面打ちで仕留めるこの超高校級の剣士は、突出した実力で剣道界に君臨する怪物であった。


 その龍仙に、是良人は対戦相手として望まれているという。公式戦での成績はかけ離れている。直接戦ったこともない。だが、思い当たる節がひとつあった。
 高校生となって最初の全国大会会場で、まだレギュラーではなかった是良人は龍仙に話しかけられている。一年生にしてすでに完成された風格を備えた負け知らずのホープは、通路で出くわした是良人に駆け寄り、隙のない黙礼をしてからこう言った。
“お父上には一度御指導を賜りたかった。俺(おい)の眼(まなこ)には華親先生の剣が焼き付いてしもうたんじゃ――”

 父・華親冬理が行方不明となって一年が経つ頃だった。その何年か前、是良人が小学生の時分に、冬理は武者修行と称してしばらく九州地方を巡っていた。そこでの、限りなく真剣勝負に近い試合を、龍仙は縁あって見ていたのだろう。
 そして彼は今も視ているのだ。己を魅了した剣士の技を、その息子である是良人の中に。

「そういうわけだから、是良人くんをチームから外すなんて真似、やめてくださいよ先輩方?」

 その場の全員に向かって言いながら、笑顔の百萬郎は土蔵を細めた目でじっと覗き込んだ。「もし是良人くん抜きのおたくらと当たっちゃったら、僕、がっかりきて突きの手元が狂うかも知れないな。なにぶんにもまだ一年なもので」

 喉元の一点を強く突き抜かねばならない“突き”は、難易度が高く危険でもあるため中学生までは使用を禁じられる技である。滅多にあることではないが、喉を守る垂れを潜るように突きが当たれば、命に係わる怪我となる可能性もあった。

 そして百萬郎は今回の大会で、半数以上の試合をこの突きだけで勝ち進んでいる。相手を足運びの妙で追い込み、堪らず前に出たところをカウンターで突く神速の絶技――敗れた何人かは、その場で崩れ落ちるほど強烈に喉を打たれて悶絶していた。
 この百萬郎が、わざと防具の隙間に突きをねじ込んできたなら……想像するだけで背筋が寒くなる話であった。実力が伯仲しているなら勝負を決する重大な隙になるだろう。しかしこの場に居並ぶ土蔵の取り巻きにとっては、殺気を孕んだ百萬郎の脅しは具体的な恐怖となって咽頭部に幻の痛みを生じさせた。

「メガロ、完璧に操る自信がないなら突きは禁じるぞ」

 張り詰めきった車両内に、今度は明らかに女のものと判る声がした。ただし、そこには微塵の柔らかさもない。合成音声のようにすべての感情を絶った、鞭の鋭さを想像させる声だった。
 百萬郎の端正な顔に“しまった”という表情が反射的に浮かぶ。十億主も片目を瞑り、もう片方を見開いて顔を歪ませていた。

「ね、姉さん――」
「厠(かわや)じゃあ、なかったのか、姉者……」

 天才高校生剣士と、無敗の柔道王者が、揃って罰を受ける前の犬のような呻きを漏らした。
 次の瞬間、百萬郎の身体がぐらりと傾き、そのまま通路を挟んだ向こう側の座席まで転げるように飛んでいく。次いで十億主の巨体までが、同じように是良人の目の前から消え、座席の間の空間から放り出された。

 力任せではない。ふたりともバランスを崩されて、堪らず自分で飛び出していく格好だった。そして、このふたりの間を素早い魚が掻い潜るが如き動きで、入れ替わりにひとりの女が現れていた。

「元気が余っているなら、帰ったら私と対面稽古三回しずつだ。いいね、おまえたち」
 言いながら、視線は是良人にのみ注いでいる。
 その目を受け止めて、是良人は知らず息を呑んでいた。

 見たことはある。雑誌で、あるいは映像で。剣道大会の会場で目に留めたことも幾度かはあった。その美貌を、知ってはいたはずだった。
 しかし、この至近距離で見つめ合った時、それはまるで別次元の吸引力を発揮していた。心を揺さぶられる奇跡の造形の数々――絹で磨き上げた大理石を思わせる艶やかな肌、小作りだがぴんと通った鼻筋、淡い桃色の唇は瑞々しい花の蕾のようで、頬から顎にかけての輪郭は思わず触れてみたくなる柔らかな曲線を描いている。ややウェーブのかかった栗色の髪は肩より下で揃えられ、形の良い眉は何の手入れも施されぬままに細く、睫毛は見とれてしまうほどに長い。

 何よりも魅入られてしまうのは、強烈な輝きを放つその双眸だった。二重の、大粒の巴旦杏(アーモンド)のように形の整った目の中で、焦げ茶の大きな瞳がわずかの曇りもなく煌めき、その中心に是良人の姿を捉えている。覗き込めば時間の感覚を喪失してしまいそうな、鋼玉(ルビー)の絶美を備えた明眸であった。

 女の名は瑪守沙兆(さてら)――十億主と百萬郎の姉であり、春にふたりの所属する高校を卒業して付属する大学へと進んでいる。
 それを是良人が知っているのは、瑪守三姉弟のうちで最も名高いのが、誰あろう彼女であるからだ。勝ち抜き記録を打ち立てた剣士も、目を瞠(みは)る巨体の格闘者も、彼女の経歴と比べればまだ霞んでしまうからだ。

 瑪守沙兆はまさしく怪物であった。神に愛された“武”の申し子であり、突出した才は男女の性差さえ超越した存在だった。
 彼女が中学に上がって所属した部活動は三つ――剣道・柔道・そして弓道である。そのいずれにおいても、瑪守沙兆は現在に至るまで無敗であった。竹刀を持たせれば相手の打撃を捌くまでもなく脳天に雷速の一撃を決め、弓を取れば決して的を外さず、柔道に至っては無差別級で戦っても容易に相手を畳に這わせてしまう。

 彼女と同時代に生まれたこの三競技の女子選手は、体重別で開催される柔道大会を除けば誰も優勝の美酒を味わうことができなかった。この柔道も、無差別級大会では倍近い体重の強豪選手が沙兆に赤子扱いされ、完全に自信を喪失してしまうのだった。彼女は破壊者だった。中高の六年間に、それぞれの競技を半ばで諦め、引退してしまった同年齢の女子選手は恐ろしい数に上ったと言われている。どれだけ努力しようと届かない才能を目の当たりにして、心を折られてしまったのだ。

 だが、沙兆はそうした脱落者の心情を一顧だにしない。無慈悲に勝ち続け、三競技のすべてにおいて出場した大会を六年の間総なめにした。開催日が重なっていた場合、どちらの競技に出ないでくれるのかを、他校の選手たちは祈るように見守っていたと伝え聞く。
 不敗・無敵の完全闘技者――そうしてついた渾名(あだな)が“羅刹女(らせつじょ)”だった。衆生をどれだけ殺害しても決して飽き足らぬ鬼神。年頃の少女には酷な称号だったが、沙兆はそれさえもまるで意に介さず、ブルドーザーのように対戦相手を薙ぎ倒していった。彼女は本当に、別格の怪物であったのだ。

 そして今は、母校のそれぞれの部活動に特別コーチとして招かれている。ここにいるのも、末弟百萬郎たちの大会参加に指導者として付き添っていたからであった。

「諸君、弟たちが迷惑をかけてしまったようだ。どうか御容赦願いたい」

 謝罪とはほど遠い、なんの感情も込められていない口調だった。ほんのわずか、会釈程度に頭を下げたが、視線は是良人から一瞬たりとも切らない。是良人にしか興味がなく、土蔵たちは相手にしていない、目の端にすら捉えていないのは明白だった。

 改めて、是良人は沙兆の全身を視界に入れる。身長は百六十センチ半ば。鍛え上げられているはずだが、速度を殺す無駄な筋肉はつけておらず、半袖から覗く白い二の腕は信じられないほど優美な柔らかさを保っていた。キュロットスカートからすらりと伸びる長い脚も、女性らしさがまるで損なわれていない。武道に打ち込んできたとは思えない、むしろ最高の美容術を施してきたような肢体がそこにある。
 しかし、是良人は惑わされない。擬態にも似た美貌の薄皮の下には、恐るべき精度に練り上げられた武芸者の肉体が隠されている。今の、弟たちとの刹那の攻防だけでもそれは充分に判る。

 百萬郎も十億主も、沙兆に軽く袖を通路側へと引かれただけだった。ただし呼吸を読んだそのタイミングが絶妙で、十億主の巨体までもが宙を泳ぐようにバランスを崩し、なんの抵抗も許されずに座席の間から放り出されてしまったのだ。虚を衝いたとは言え、いずれも同世代から魔物のように畏怖される武の巨人たちをいとも簡単にあしらった沙兆の技術は、円熟の達人の域にあると是良人は見ている。

「華親、是良人――」

 沙兆の唇から、見つめる相手の名前が発された。「君の剣術は興味深い。華親流の本流とはまた違うものだ。もっと早く気づいていれば、うちの学園に引っ張ったのにな」
「……」
 是良人は沙兆の真意を測りかね、沈黙を保たざるを得なかった。この武神の現し身(アバター)は、自身でさえ分からない剣の中に何を見ているのか?

「痛てて……ひどいよ姉さん。自分だって是良人くんを見に来たんじゃないか」
「そ、そうじゃあ。こっちの肘掛けが折れてしもうたぞ。これは幾ら弁償せにゃならんのだ?」
「こういうのは、道場破りと一緒だよ、おまえたち」
 弟たちの抗議の声を、沙兆はぴしゃりと押さえつけた。「私に簡単に転がされるようでは、覚悟も警戒も足りないとしか言いようがない。少し黙って反省なさい」
「そんな、姉さん相手じゃ、身構えてたって――」
 なおも言い募ろうとする弟の口を、十億主が掌で覆って首を左右に振った。その狼狽気味の態度から、瑪守の家で沙兆がいかに絶対的な存在なのかが理解できた。

 弟たちが黙ったと同時に、沙兆は是良人に息がかかりそうなほど近くまで顔を寄せた。吐息の甘い匂いを感じて、知らず鼓動が早くなる。否、この心拍の乱れは、驚くほど自然に間合いを詰められたことに対する驚きであったのかも知れない。
「少なくとも、こんなクズどもとともに過ごすよりは遙かに有意義だったはずだ。どうだ? インターハイが終わってからでいい、うちに来て、百萬郎と剣の道を究めてみる気はないか?」

 本気とも冗談ともつかない、突拍子もない申し出だった。土蔵たちチームメイトの前で持ちかける話でもない。インターハイ前に部の和を乱す計略と取られかねない行為だったが、そもそも沙兆は冗談や洒落を口にしない種類の人間に見えた。常識で考えればあり得ない提案だったが、彼女の目は真剣な光のみを宿していた。

 ――それも悪くないかも知れないな。

 馬鹿げた話だと思いながらも、是良人は少しだけ夢想した。父が消息を絶ってから、自分もどこかへ――誰も自分を知らない地へ飛び出してしまいたくなる衝動が時折首をもたげることがあった。沙兆の誘いは厳密には是良人の欲求を満たすものではなかったが、己の剣に繋がる道を模索するという意味では悪くない選択肢だと言えた。

「いい加減にしやがれよ、てめえら――」
 向かい側で縮こまっていたはずの土蔵が、ようやく自分たちが屑と呼ばれたことに気づき、怒りで息を吹き返した。何より、目の前から百萬郎と十億主が消えたことで、愚かにも恐怖を忘れて気力を復活せしめたのだ。最も恐ろしい沙兆を眼前に置きながら、武の本質を目に映すことのできない土蔵は、彼女を“たまたま”女子で一番になった、見目麗しいだけの女だと見なしていた。瑪守兄弟の様子も、単に姉に頭が上がらないだけで、女が本気の男に敵うわけがないと見下していた。

「他校のいざこざに首を突っ込んできた挙げ句、俺たちをクズだと? 許さねえぞ、許さねえからな! ここにいいる全員が証人だ! 連盟に正式に抗議してやるよ! インターハイ前にレギュラーに引き抜きを持ちかけてきたってなあ? 出場停止ってことになるかもなあ?」
「少し心が動いてくれたか、華親是良人」
 吠える土蔵に目を向けようともせず、変わらぬ近さで沙兆は囁いた。「私は君のような求道者が好きだ。そしてあっちの、喚くクズがとても嫌いだ。傷が残らないように痛めつけてやろうと思うのだが、いいかな?」
「悪くないけど、いろいろ面倒が起こるだろ。どうせそのつもりのところを、あんたのでかい弟に止められたんだし、俺がやるよ」

 是良人の応えが意外だったのか、沙兆は少しだけ目を丸くして唇の端を緩めた。それが彼女の笑顔なのだと、やや遅れて是良人は気づく。
「思った通り、いいな君は。ゼラトと呼ぶよ。私はサテラでいい。うちに移る移らないは別にして、これからも交流したいな。それと――」

 すうっと、その目が冷酷に細められた。「あのクズは女を侮っている。それは即ち、瑪守の家を侮辱したも同じだ。だから私がやる。なに、二度と逆らえないようにする技術は家で習っているから心配しないでいい」
 怖い言葉をさらりと吐いた瞬間には、沙兆はすでに背を向けていた。いつ身を翻したのか、その呼吸をまるで察知できなかったことに是良人は驚嘆する。

「ぎゃあああ!」
「しーっ。うるさいぞ、クズ。まだ全然痛くはないだろう?」
 そこには、左の耳に沙兆の右小指を差し込まれて悲鳴を上げる土蔵の姿があった。振り向きざま、沙兆は正確無比な動作でそれをしてのけたのだ。
「粘って気分の悪い耳の孔だ。倍に広げるか? ん?」
「わああ、やめッ、やめて――」
 ぐるりと指を半回転され、こみ上げる畏れで土蔵は情けない声を漏らした。さすがにもう気づかないわけがないのだ。瑪守沙兆は、誇張されていると思われた噂ですらまるで真実を伝えきれていない、正真正銘の羅刹女であるのだと。

 思わず、是良人は微笑んでいた。武の化け物だが、これほど好感を抱ける女を是良人は知らない。一緒に稽古をしたら、さぞ楽しいだろうと考えた途端、ふっと場違いな笑みが浮かんでしまったのだ。
 その気配に気づいたのか、沙兆は首だけ振り向いた。
「いい笑顔ができるじゃないか、ゼラト。その心持ちで仕合に臨めば勝っていたぞ」
 そういうものかも知れない――そう、腑に落ちた直後に、車両内の空気が変質した。強い耳鳴りと、鼻の奥に錯覚めいた幽かなきな臭さが広がる感覚。

 列車がトンネルに突入した気圧の変化だと、その場の誰もが思った。だが、一瞬ののちに照明が落ち、車窓の外が明瞭に見えるようになって、彼らは言葉を失う。
 そこはトンネルなどではなかった。真っ暗な空と、黒い絨毯を敷き詰めたような雲海。紫色の電光が疾り、その空間が彼方まで広がっていることを示してみせる。列車の窓から見える光景では、それはあり得なかった。

 続いて、不快な減速感が襲った。ブレーキがかけられた様子もないのに、急制動に伴う失速の感覚が胃液をこみ上げさせる。停止したと感じると同時に、血の気の引く急激な落下が始まった。車両は雲海に沈み、窓は煤煙に似た真っ黒な靄に塗り込められる。
 そこかしこで絶叫が響いた。是良人のチームメイトたちはたちどころに恐慌に襲われ、意味をなさない言葉で叫んでいる。誰に対してかも分からない許しを乞う泣き声もあれば、反射的に鉄道会社への怒りを喉から迸らせる者もいた。ただ泣きじゃくる声さえあった。

 その彼らを、さらなるパニックへと追いやる眺めが車窓に映る。
 靄の向こうが時折稲妻に照らされ、わずかな時間だけ影絵のように浮かび上がるものが見て取れる。それは、墜落する角度で機種を下に向けた大型旅客機だった。次の稲光が見せるのは、天から零れ落ちるフェリーだった。大小の車が雨霰のように、列車と並んで墜ちていく。雷光が閃くごとに切り替わる光景は、常軌を逸した狂気の幻燈会のようであった。

 力のない叫びのハーモニーが奏でられる中、長い暗転があって――。
 一際目映い雷光が、耳をつんざく轟音とともに閃き、そいつの姿を明瞭に照らし上げた。
 人類の祖先がまだ、その萌芽も見せていない古代の空に、あるいはこのような生物が存在したのかも知れない。ぶ厚い皮の翼を羽ばたかせ、ぬめぬめとした体表を黒光りさせて飛翔する翼竜――しかしその首は異様なまでに長く、短剣を無数に並べたように生え揃った牙の間から、炎の吐息が溢れ出して虚空に尾を曳く。幾つも並んで無機質に輝く眼が、一斉に動いて車両の中を覗き込んだ。

 狂ってしまえと言わんばかりの眺めであった。事実、チームメイトの中には消え入りそうな、高く低くうねる笑い声を発し続けている者もいた。これを現実と認められず、逃避するようにぶつぶつと呟く声も聞こえてくる。
 この状況下で、沙兆が落下が始まってからも声ひとつ上げなかったことに、是良人は感動を禁じ得なかった。こんな女がいるのかと、自身が危地にあることも忘れて畏敬の念に駆られていた。

 恐慌状態に陥っていないのは、見れば是良人と、瑪守三姉弟くらいのものであった。この騒ぎで耳孔を解放された土蔵も、両の肘掛けを握り締めて定期的な絶叫を繰り返している。
 わずかな緊張を覗かせただけで、沙兆は平然と是良人の隣の席に腰を下ろしていた。そして窓の外で牙を剥く飛竜を一瞥し、再び戻ってきた闇の中で、是良人の右手の甲に左手を重ねる。
「どこまで墜ちるんだろうな」
 顔を正面に向けたまま、沙兆が囁いた。
「平気そうだな」
「ゼラトこそ。常在戦場ができているな」
 その言葉に思わず、是良人は噴き出す。
「なんで笑う」
「それ、この場合に使う表現か? でもまあ、同じことのような気もしてきた」
「だろう? うちは――家のほうだけど、毎日寝る前には“死”を想えって教えられてきたんだ。おかげで大概のことには動じなくなった」
「いいな、それ」
「そう言ってくれるか」

 沙兆が載せた手を軽く握った。「これを切り抜けられたら、やっぱりうちに来い、ゼラト。瑪守の家のほうだ。向いてるぞ、君は――
 是良人がそれに返答しようとした時、奇妙な感覚が右手から広がった。沙兆の左手が甲から沈み込んで、ひとつに融け合わさるような知覚異常。それが瞬く間に全身へと伝播していく。肉が、細胞が、神経がほどけて、無数の翅(はね)に変容していくような錯覚が襲う。
 融合した手から、沙兆もそのように感じていると伝わってくる。妄想としか思えない感覚だったが、それは不思議なほどの確信を伴っていた。

 ――青い、揚羽蝶……?

 是良人は高速で流れる車窓から、淡く輝く幻を見たことを思い出した。あれはこの不可解な現象の導き手であったのかも知れない。きらきらと舞う青い鱗粉と、視界を数多に分割する複眼からの眺めが脳裏に現れ、強制的に是良人の思考を満たしてしまう。意識は明瞭でありながら、知覚が無数に拡散し、己の肉体が夥(おびただし)しい数の蝶となって乱舞しているような感覚に見舞われた。狂乱する生命の欠片(かけら)。やがて、その知覚ひとつひとつが次々に遮断されて……。

 彼らは、長い長い墜落を経て大地へと到達した。
 エスカリオと呼ばれる異界の地へ。運命と対峙する異邦の者となって――

――― 二章へ続く