第二章 覇を競う者たち

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 意識を失っていたのは、ごくわずかな時間だった。
 錆混じりの土に頬を埋めた姿勢で、是良人は覚醒した。冷たい大地に体熱を奪われていく不快感が、素早い目覚めを促したのかも知れない。
 右の掌だけが心地好い熱を帯びている。その感覚が意識を安らかな喪失へと再び引き込もうとしたが、この誘惑を即座に振り払って、倒れたままの自分の頭の上に伸びた右腕に目を凝らす。

 視界が暗い。だが、光は感じ取れる。視覚を失ってはいないが、五感が混濁して情報を把握しきれていないのだと解る。もどかしく感じる間にも、急速にそれらは整理され、回復していく。目の焦点が合い、右手が握っているものが像を結ぶ――。

 沙兆だった。
 同じような姿勢で倒れ、ほぼ同じタイミングで五感を取り戻して、沙兆も目を細めながら是良人を視ていた。自分の左手が握っている、人肌の温もりを確かめようとして。
 ふたりは繋いでいた手を放すと同時に、弾かれたように身を起こした。そして示し合わせもせず、互いににじり寄って背を合わせる。背後の死角を預けるに足る相手だと、ふたりともが咄嗟に判断していた。

 そこは、スクラップ置き場のような場所だった。
 夥しい量の、鉄屑となった乗り物が赤茶けた地面に散乱している。漂う錆びた鉄の臭気は、少年時代に忍び込んで遊んだ廃車の集積場を思い起こさせる。
 ただし、そこは混沌に満ちていた。整然と積み上げられた車は一台もない。まるで巨人が掴み上げ、適当に投げつけたかのように、それらの車体は酷くひしゃげ、潰れ、砕けていた。さらには、その乱雑な鉄屑の山の中に“く”の字に折れ曲がった客車があった。穴の空いた船底を天に向けているクルーザーがあった。その向こうに見えるのは、半ばで千切れた旅客機の翼の残骸であった。およそ尋常の眺めではない。

 そして何よりもここが、自分たちが先刻までいた日本ではないことを是良人は悟っている。

 七月の終わりの蒸し暑さはどこにもない。彼らを包んでいるのは、長い間熱を帯びたことのない冷え切った空気だった。急激に体熱を失う感覚は、地面に横たわっていたからだけではなかったと是良人は納得する。

 背に沙兆の熱を感じながら、是良人は自身の身体を点検する。神経の通っていない部位はない。手指足指も欠損した箇所はなさそうだった。興奮でアドレナリンが過剰に分泌しているため痛みによる判別は当てにならなかったが、骨はどこも折れていないと思われた。

「何じゃあ、こりゃあ――」
 すぐ近くから、十億主の野太い声が響く。続いて、百萬郎が息を呑んで絶句する気配も届いた。瑪守の兄弟もまた、深刻な負傷はしていないようだった。
「騒ぐなんじゃない、ギガス。それより、すぐに何か見繕って拾え」
 凜とした沙兆の口調には微塵の動揺もない。だが、緊張が滲んでいる。その理由を是良人も気づいている。

 周囲のスクラップの影から、不規則に異音が聞こえてくる。鼻腔の奥をくすぐる腐肉の臭気――何か大きな獣が、複数蠢いているのだと知れた。
 ――野犬か猪の類いか……厄介だな。まさか熊はないだろうが……。

 是良人と沙兆は、合わせた背の感覚で会話するように意志を伝え、立ち上がる。周囲に素早く目を走らせ、背を離して狙いをつけた残骸に駆け寄り、拾い上げた。
 是良人が鉄屑の中から引きずり出したのは、何かの配管の一部であったらしい朽ちかけた金属パイプだった。握るにはやや細く、思いのほか長くて、護身用の得物としては少々心許なかったが、それでも牙や爪を持つ獣を素手で相手にするよりは遙かにましである。
 わずかに背後に目をやれば、沙兆は半ばで破断した短めの金属棒を手にしていた。手槍のように使うしかなさそうだったが、彼女は案ずるなという風情で、是良人に背を向けたまま空いている左掌を左右に振った。

 ここがどこなのか、自分たちに何が起きたのかを確かめたい衝動は強い。恐らくは高緯度地方の気温だと思われたが、ならばあの一瞬で何千キロメートルも移動したということになる。その理由を知りたいという当然の欲求が、気を抜けば頭をもたげそうになったが、是良人はこの衝動を強引に抑えつける。そちらに気を逸らせば命に係わると本能が激しい警報を発していた。他の剣道部員がどうなったのか、それを知る術も時間も今はなかった。
 沙兆が先ほどの左手を是良人の側に大きく反らせ、親指だけを上げ下げして四と五を繰り返す。潜んでいる獣の数がそのどちらかだと告げている。声を出さなくなったのは、それが襲撃の引き金となりかねないからだった。

 辺りは暗い。だが、車窓から最後に見た黄昏の風景よりも光は留まっているように見える。雲がまばらに漂う空は夜のそれだったが、地平線には陽光が帯となって残り、スクラップ群を陰影の際立ったオブジェクトとして浮かび上がらせている。
 低く散乱する鉄屑の向こう側に見える大きな影と細身の影は、間違いなく十億主と百萬郎のものだろう。彼らの姿を視認するには光が足りなかったが、おのおの武器となる棒状の何かを手にしているのが分かる。

 この時、雲間から満月が姿を現し、月光が降り注ぐ。冴え冴えと冷たい光に追い立てられたかのように、スクラップの陰に潜んで機を窺っていたものたちが一斉に躍り出た。禍々しいまでの殺気を膨らませながら――

 それは飢えた野犬でも猪でも、そして熊でもなかった。
 目のない蛇というのが、最も近い表現だろうか。ただし、その生物は是良人の知るどんな蛇とも似てはいない。
 猫科の大型肉食獣を思わせる牙が、冗談のように裂けた口から溢れ出すかに生え揃っている。頭部を囲む襟巻き状のヒレは、ぬめる表皮と相まって深海に棲む魚類を想像させた。牙の間から覗く長い真っ赤な舌が別の生き物のようにくねり、それを後追いして丸太ほどの太さの胴体がうねる。

 この奇怪な大蛇が二匹、是良人と沙兆を挟む形で這い出してきていた。鎌首をもたげた時、その鼻先に、存在しないと思われた眼がひとつあることに是良人は気づく。一ツ目の怪生物――そんなものが己の住む世界にいないことは、その分野の知識にさしたる造詣のない彼にも即座に理解できた。

 同時に覚悟を決める。眼前の、未知の化け物を撃退しない限りこの窮地は終わらない。手の中の金属パイプを操って、この怪蛇どもを殺さなければ、貪り喰われるのは自分たちということになるのだ。

 輝く単眼との睨み合いは一瞬でしかなかった。巨体からは想像もできない鞭の迅さで、怪蛇は全身を波打たせて迫る。その速度を乗せて、粘性の高い唾液を纏った例の舌が矢の如く射出された。まともに受ければ昏倒しかねない衝撃を受ける勢いであり、また触れればそのまま絡め取られ、次には巨大な顎(あぎと)に引き寄せられて致命的な咬撃を加えられることになる剣呑なものであった。
 これを、是良人は青眼の構えからの、手首のスナップを利かせた最小限の振りで迎撃する。鉄パイプが空気を裂き、伸び来たる舌の先端を正確に捉えた。

 その刹那、是良人は全身の神経を電撃が駆け抜けたような感覚に見舞われていた。
 何もかもが違う。何もかもが異なっている。熟知しているはずの己の肉体が、まるで別のものに組み換えられたかの如き異様な感覚――それは集中が極限まで高まった試合中に、稀に起こる知覚の先鋭化に似ていた。

 驚くべきことが現象として生じていた。鈍器に過ぎない鉄パイプの一撃は、さながら研ぎ澄まされた剃刀が一閃したかのように、怪蛇の舌を綺麗に根元まで裂いていた。
 怯み、顎を限界まで開いて仰け反った蛇の頭に、流れるように頭上へと跳ね上がった鉄パイプが、右上段の片手打ちで追撃を加えていた。どこにも継ぎ目のない、怒濤の如き連撃――それは障子紙を破るような軽い手応えで、単眼を含む怪蛇の上顎部を粉砕した。


6.11 追加更新!
 噛み合わせる先を失った下顎が、閉じる勢いで天に向かって反る。突進の勢いをそのまま上方へのベクトルに変えて、長大な胴体をほとんど垂直に屹立させ、唾液と体液を噴出させながら奇怪な大蛇は絶命した。  これがまぐれでは――たまたま当たりどころが良く、千に一度の会心の打撃を繰り出せたというようなものではないことを、是良人は身体の芯から感じ取っていた。錯覚ではない。回数を数える意味すらないほどの素振りを繰り返し、自在に剣を操るための鍛錬を重ねてきた肉体は、その異変を確信として伝えてくる。  ほんの数時間前のことであったはずの、大会の試合での己が、遙か昔の通過点のように感じられる。筋力が、反射速度が、動作の精度が、さらには動体視力まで――およそ武道に必要な身体能力すべてが、自分のものではないかの如くに向上しているのが分かった。そしてそれが、たとえ禁欲的なまでの研鑽をあと二十年積み上げたとしても、決して獲得できない種類の能力増幅であることも。  あたかも超人になったかのような、陶酔してしまいそうな高揚感が是良人を襲っていた。極論してしまうなら、武の道に邁進して肉体を鍛錬し、技術の精髄を追い求める者はあまねく、人を超える存在への憧憬を胸の奥に抱いている。多かれ少なかれそうなりたいと願い、夢想して、終わりのない過酷な訓練に臨むのだ。  その理想の能力が今、自分の肉体に宿っている――それは、求道者の理性の箍を外すに充分すぎるほどの歓喜だった。もうここで果ててもいいと思わせる、決して辿り着けぬはずのゴールに到達してしまったかのような昂ぶりであった。  しかし、是良人はその肉の歓びに身を委ねない。それは幼少時から剣の稽古を続け、つま先でにじるように着実に力をつけてきた是良人にとって、本能的な危険を嗅ぎ取らせる種類の猛りだった。身を任せて溺れたが最後、命までも落とす麻薬的な全能感――精神に培ってきた強い戒めが、荒波のように滾る感情の中心を鏡面の穏やかさ、冷静さに保つ。  斃した怪蛇を追って仰いだ視線を、その長大な体が横倒しに崩れるのに合わせて空から戻し、わずかに後方に走らせる。  己の戦いをしながら、音で背後の状況はほぼ把握していた。そこには、沙兆を襲撃したもう一匹の怪蛇が、予想していた通り骸となって転がっている。  単眼をはじめ、人で言えば正中線となる部位に、十箇所近い孔が正確に穿たれていた。武器としては心許ないはずの貧弱な尖った棒で、彼女はまさに羅刹の如く、大蛇の急所を次々と貫いて容易に息の根を止めてのけていた。  手槍までもお手のものか、と是良人は舌を巻く。同時に、自分に起きている信じ難い能力の増幅が彼女の身にも生じているのだと確信した。  と、不意に視界の明度が強まった。月の輝きが勢いを増したかのように、廃棄物の山が皎々と注がれる光に白く浮かび上がる。  次の瞬間、沙兆が電光の迅さで動いた。向上した視力でさえ、辛うじて反応できたかどうかという瞬発力であった。 「やあっ!? やっ、やめ――」  彼女に物陰から引きずり出され、首筋に金属棒の先端を突き立てられそうになったそいつが悲鳴を上げた。  月光を浴びたその顔は、人のものを戯画化したかのような異形だった。脂ぎった禿頭と、異様なまでに上端が長く尖った耳。細い一重の目の中で、小さな黒目がせわしなく動いている。古い怪奇映画に登場する吸血鬼を彷彿とさせる不気味な怪人が、沙兆に組み伏せられている。  だが、是良人はその声を知っている。不快な、つい先ほどまで叩きのめしてやろうと決めていた相手の声――。 「たっ、助けてくれ! 俺だ、土蔵だ!!」  そう言われて、沙兆に初めて動揺が生じた。確かにその人物は土蔵の特徴を残している。変貌しているのだ。この奇妙な怪蛇が現れ、超人の力を得る怪現象に連なる異変のひとつとして。  その土蔵らしき怪人が、お守りのように竹刀袋を抱えていることに是良人は気づく。列車の窓際に立てかけていた、自分の愛用のものだった。自分たちがあの車両からいつ放り出されたのかも定かではなかったが、土蔵は最後にそれにしがみつくようにして、今現在も無意識に縋りつき続けているのだろう。  百萬郎も十億主も、それぞれ襲ってきた蛇を仕留めたようだった。怪蛇が四匹と、異形となった土蔵――それで、沙兆が推測した潜むものの数は一致する。窮地は脱したかに思われたが、状況の混迷は終わらない。  もはや常の知識と判断力で推し量れる段階ではなくなっていた。すでに自分たちは死んでいて、ここが地獄か煉獄――死後の世界であっても天国ではあるまい――であったとしてもさしたる不思議はないと是良人は思っている。ただ、肉体を操る感覚だけが、これが紛れもない現実なのだと論理の飛躍を抑えつけてくれている。 「おまえは……クズ野郎なのか?」  沙兆が手槍の先端を動かして、それを避けようとする土蔵の顔を上向かせる。 「く、クズじゃねえ……いや、そうだ、アンタの言うクズ野郎だよ! だから、それを突きつけるの、やめ――」 「何があった? 天罰でも下ったか」  情けない声を上げる土蔵を、一切の情けをかけずに沙兆は検分する。同一人物には見えぬ姿であり、そして彼女にしてみれば土蔵は先刻、ほんのわずかなやり取りをした相手に過ぎない。チームメイトの是良人とは違い、真偽を確かめるために神経を集中させたのは無理からぬところだった。敵対するものの気配すべてが確かめられていたことも、本来最も隙がないはずの沙兆の警戒が弛む一因となっていた。  是良人が再び視線を頭上に向けたのも、ほとんど偶然によるものだった。断末魔に伸び上がった怪蛇を見上げた時、満月と、その傍らに漂う雲に感じたわずかな違和感――月光が強まった原因への疑問が、知らず是良人に天を仰がせていた。  鼓動が跳ねた。  ここは日本のどこでもなかった。否、世界の――地球上のどこでもない場所なのだと、明確に示す眺めがそこにあった。  吹き流された雲の裏側から、もうひとつの満月が現れていた。ふたつの月――このあり得ない存在こそが地上を、昼を欺く明るさで照らすものの正体だった。  そして、是良人の目は捉える。新たに出現した満月の真円の輝きの中に躍る、禍々しい翼影を。直後、それは月を外れて夜空の黒に溶けた。急降下を開始したのだ。沙兆という獲物に向かって――。  これを目視できていなければ、到底察知できぬ頭上という死角からの奇襲だった。物陰に隠れる時間はない。是良人は握ったままの、先の連撃で大きく曲がってしまった鉄パイプを放り捨てた。これでは斃せない相手だった。 「サテラ、竹刀袋を! 伏せろ――」  最低限の指示を叫び、沙兆と土蔵の方向に走る。沙兆にはわずかの躊躇も、意識の遅滞もなかった。気づけばもう、土蔵の手から毟り取った袋が目の前に飛んできている。  竹刀袋を放り投げる刹那、沙兆の目が少しだけ見開かれたのが分かった。そう、彼女が想像していたよりもそれは遙かに重いはずだった。その驚きを即座に消して、彼女は土蔵を押し潰すようにしながら自分も身を伏せる。  重い皮の翼が大気を叩く音と、沙兆の背を大鎌のような鉤爪が掠めるのは同時だった。少しでも遅れていたなら、深々と切り裂かれているタイミングだった。  死の翼を広げて飛来したものは、車窓を通して雷光の閃きの中に見たあの翼竜であった。怪蛇などとは比ぶべくもない捕食者であり、翼長が五メートルを超えるであろう天空の王者――一度の奇襲を避けたとしても、そのままでは到底逃げおおせることのできない相手である。  だが、この瞬間なら――必殺の襲撃を躱され、地面への衝突を防ぐために大きく羽ばたいて速度を殺した今なら攻撃が届く。斬撃を当てられるところにほんのわずかな間、この怪物は留まっている。  是良人は竹刀袋を受け取る動作を止めず、手慣れた流麗さで中身を引き抜いている。納められていたのは、竹刀ではなく木刀――是良人が日々の鍛錬のために、肌身離さず持ち歩いている素振り用の木剣だった。  ただし、普通の木刀ではない。鉄木と呼ばれる、水没するほど比重が高く硬い種類の樹木を削り出して作られたものだった。その重量は約千五百グラム。刃渡り九十センチを超える野太刀の真剣に匹敵する重さに仕立てられている。 “これを自在に操れるようになっておけ――”  父・冬理にそう命じられ、中学に進む頃に手渡されたものだった。以来、一日も欠かさずにこれで素振りを続けてきた。竹刀が小枝の重さに感じられるほどに、今では完全に是良人の手に馴染んでいる。  緑がかった褐色の、蝋を塗ったように艶やかなこの木刀を、是良人は下段に構えて跳ね上げた。地擦りの低さから一閃した重い刀身は、飛竜の長首を真下から捉え、その質量と勢いで皮と肉を引き千切るように切断した。  頭部を失った翼竜の巨体は、滑空状態に入った姿勢そのままに、是良人の横を飛び去って少し離れた旅客機の翼の残骸に激突する。凄まじい騒音と砂煙が上がり、ややあって静寂が廃棄物の密集地に訪れる。  誰も声を発さない。是良人が何をしたのか――何をしてくれたのかを余さず理解した眼差しを向けて、沙兆は身を起こした。 「生命の木(リグナムバイタ)の木刀か。珍しいものを持っている。折れなくて良かったよ」  沙兆は手にした際の重さと、是良人が振るった一瞬で木刀の材質を正確に見抜いていた。リグナムバイタ――鉄木の中でも最も重く、最も硬いとされる中南米原産の樹木である。実のところ硬すぎ、密であるがゆえに、実用品としての木刀には向いていない。思い切り立ち木に撃ち込めば、跳ね返ってくる衝撃の大きさで容易に折れてしまう。  是良人はこの時、折れ砕けても構わないと考えて振っていた。難敵を仕留める機会を逃すわけにはいかなかったし、己の腕が未熟であれば道具は壊れる。鋼の真剣であってさえ、刃を振り抜く際に太刀筋がぶれれば簡単に曲がってしまうのだ。大切に扱ってきた、今となっては父の形見とも言える木刀だが、この場にいる全員の命がかかるとなれば天秤に乗せるまでもない。だから是良人は全力で振り抜いた。  それが功を奏したのだろう。極限まで増幅された剣士の能力は、交錯のあの一瞬に、強靱な筋肉繊維と骨の塊のような翼竜の首の狙うべき一点――頸骨の継ぎ目に是良人の太刀筋を導いた。そこへの思い切った一撃は、本来鈍器であるはずの木刀の打撃を斬撃の鋭さへと昇華し、刀身にほとんど負荷を与えずに長首を断ち切ることに成功したのである。 「やってくれたな華親! いいやゼラトと呼ばせてくれ! 俺のこともギガスと呼んでくれい!」  姉の窮地を救ったことへの称賛と感謝を滲ませた十億主の声が、鉄屑の山を回り込んで背後から近づいてくる。どうやら瑪守三姉弟はいずれも、名で呼び合うのを敬意と親愛の証しであると考えているようだった。 「ギガス……おまえ、それは――」  是良人の顔越しに弟を見る沙兆の顔に、怪訝な表情が浮かんだ。その様子に予感めいたものを覚え、振り向いた是良人が見たのは、やはり十億主ではない十億主であった。  二メートルの身長が、是良人と同じ百八十センチ弱まで縮んでいる。だが、肉の総量は変わっていないか、あるいは増えているように思われた。横幅も、厚みも太く、そのどっしりと安定した佇まいは大型冷蔵庫のシルエットを連想させる。  顔は岩を十億主に似せて彫り上げたかのようだった。その頬から顎にかけては、長く太い髭に濃く覆われている。元々着ていたカッターシャツは帆の如き巨大さの特注品だったが、それは今や丈が長く、過剰に膨らんだ肉体を包むには身幅が足りずにボタンが弾け、まるで白いマントのように背を覆っている。 「うむ、姉者。何やら奇天烈なことが起きとるようだわ。姉者とゼラトは変わりがないようだがの」  変貌をまるで気に懸けぬ様子で、十億主はぶ厚さを増した胸板を叩いて真っ白な歯を見せた。「見てくれ、この身体を。えらく頑丈だぞ? おう、気に入った!」 「兄さんのそういうところ、羨ましいよ……」  十億主の後ろから、百萬郎がとぼとぼとやってきた。この地の涼しさが堪えるのか、列車内では開いていた学生服の前ボタンを留め、腕組みをして眉根を寄せている。  “沙兆と是良人は変わりがない”という十億主の言葉にもしやという思いはあったが、やはり百萬郎の肉体にも変化が顕れていた。  一見すると、中性的な美貌と細身の姿は何も変わっていないようにも思える。だが、さらさらと揺れる黒髪の下に見え隠れしていたはずの耳が、本来あるべき場所から頭頂に向かって著しくずれていた。しかもその形状は人のそれではなく、猫や狐のものに近い三角形の、柔らかな毛に覆われた大きな耳となっている。気をつけて観察すれば、無造作に歩くその身のこなしも、猫科の大型獣――優美に忍び寄る黒豹のそれを思わせる。尋常ではないしなやかさを獲得した、流水の如き動作だった。 「おお、そこに這いつくばっている禿げ鼠のようなのはゼラトのところの副将か。あの車両にいた他の連中は見当たらん。一体なんなのだろうなこれは?」  沙兆に強く押さえつけられ、泡を吹いて失神している土蔵を十億主が軽々と掴み上げる。そのさまを眺めながら、百萬郎は深く嘆息した。 「月がふたつあって、妙な化け物がいて、自分の身体は得体の知れないものになって……正直言って僕の理解を超えてるよ。異世界に来ちゃったとでも言うのかね? ナルニア国とか、そういうの――」 「弱気を見せるなメガロ。それから、意味の解らないことを言うな。イセ界とはなんだ? 伊勢神宮の神域か何かか?」 「姉さんは本当に、武道以外はからっきしだよね……ゼラトくんはどう思う? ここをさ?」 「俺たちが住んでいたのとは違う別の世界か……そう考えるしかないだろうな。これが夢じゃなければだが――!?」  唐突に、背筋に氷の針を挿し込まれたような感覚が是良人を襲った。いきなり至近に湧き起こった、それは明確な殺意であった。 「何者だ! 姿を現せ!」  膨れ上がって四人を撃つ殺気に、沙兆が瞬時に反応して手槍を投げつける。容赦も加減もない、当たれば深く肉を穿つ渾身の投擲だったが、それは鈍い金属音とともに弾き落とされる。 「――恐ろしい手練れどもよ。器を持たぬ者でありながら、墜ちてくるなり低級とは言えワイバーンを屠ってのけるとは」  地の底から滲み出すような、不快を催すしわがれた声が響いた。  沙兆が見据える先、残骸のまばらな開けた空間に、枯れ木を思わせるみすぼらしい姿の老人が佇んでいた。  是良人が慄然(りつぜん)としたのは、この老人が沙兆の投げた金属棒を手にした杖でこともなげに叩き落としたことにではなかった。直前まで、そこには何もいなかった。月光に晒された砂塵だけがあり、気配さえもなかったはずなのだ。魔獣たちとの戦いで神経を研ぎ澄ませていた彼らがそれを見過ごすわけもない。老人はまるで、闇が凝集したかの如く忽然(こつぜん)とそこに現れていたのだった。 「惜しくもあるが、危険に過ぎる。我が思惑を外れて進む恐れがあるなら、ここで芽を摘むのが上策か――」  今にも倒れそうな老爺の姿は偽装であると、是良人はもう確信していた。老人の内側には、無理矢理その形に抑え込まれた膨大な精気が渦を巻いている。気を張っていなければ、金縛りになってしまいそうな凄まじいまでの殺気の放射であった。  老人が杖を頭上に掲げると、それまでの気配が日だまりのうららかさに思えるほどに殺気が膨れ上がる。それはほとんど物理的な圧力となって、直視できぬ勢いで是良人たちの肌に叩きつけられた。  ――何かやばい。これは、阻まないと――。  試合で対峙した強敵から、一本となる必殺の打突が繰り出される直前に感じる警報が脳内に鳴り響いていた。漫然と受ければ負ける、真剣勝負であれば生命を絶たれる一撃。あとわずか、老人を好きにさせてしまうと死が訪れる――その確信が、視界が歪む不可視の圧の中で是良人を前に進ませる。その是良人のわずかに先を、沙兆が同様に突進しているのが分かる。  だが、間に合わない。その存在を認識していない者には防ぎも躱しもできない、初見の相手を確実に葬る力がまさに老人から迸ろうとしていた。その、最期になってしまうであろう痛恨の刹那――。  深海の水のように空間を埋め尽くしていた殺意の圧が、薄いガラスが砕けるが如くに消失した。  流星が飛来した――かに思えた。横手から飛び込んできたものが、老人と激しく衝突する。  それは、セーラー服を身に着けた少女だった。青みがかった長い黒髪を彗星の尾のようになびかせ、手にした大振りの西洋剣を老人に叩きつけた。これを防御するために、老人は力を放つための集中を解き、杖で刃を受け止めざるを得なかったのだ。  ふたりの間で力が拮抗し、杖と剣が擦れて火花を散らせる。少女は群れを守る狼の如く吠え、老人は皺だらけの顔に憎しみと苦悶の表情を浮かべる。  そこに、突撃を阻む圧が消えて自由になった是良人と沙兆が殺到した。リグナムバイタの木剣の突きと、武の申し子の抜き手――老人の顔色が瞬時に青ざめ、それ以上の抵抗をやめて少女の剣に押されるままに飛び退る。そして勢いを殺さず、外見にそぐわぬ跳躍力で積み重なった車の残骸に飛び乗った。 「退きなさい! 異邦の仲間に手は出させない!」 「竜の器め、もう嗅ぎつけおったか……これでは分が悪い。よかろう、今は去るとしよう。じゃが、またいずれ会うぞ、過ぎた力を備えし者どもよ――」  虚ろな風穴の残響のような呪わしい呟きを残し、老人の姿は現れた時と同じく、闇の中に解(ほど)けて掻き消えた。 「……行ったようね。珍しいわ、あいつがここに来たばかりの人にいきなり襲ってくるなんて」  言って、少女は是良人たちに目を向けた。 「助かった。君が手助けしてくれなければ、私たちは命を落としていたな」  沙兆が握手を求めて手を差し出す。それに応える少女の腕には、竜の意匠が象られた銀色の篭手が輝いていた。  固く手を握り、少女は微笑んだ。 「いいのよ、ここでは私たちはみんな異邦人。仲間を助けるのがギルドの副団長の務めなんだから」 「異邦人――?」  そこで改めて周囲を見回した少女は、怪蛇の屍の中に切断された翼竜の頭が転がっていることに気づき、強い光を宿す目を眼窩から飛び出しそうなほどに見開いた。 「あなたたち……いきなりあれを倒したの? ここのことを何も知らない状態で――?」  そして、血のこびりついた木刀を手にした是良人を正面から見つめ、手を差し伸べた。 「私は月貞里羽(つきさだりう)、ここではただ、リウって呼ばれているわ。ようこそ、剣の街エスカリオへ――私たちにとっての異邦へ。異邦人ギルドはあなたたちを歓迎します」  木剣を左手に移して握手を交わす是良人の目を、リウは至近から覗き込み、続けた。 「どうか、あなたたちの力を貸してちょうだい。迷い込んでしまったこの世界から、みんなで帰還するために――
「頼むよサテラさんたち。ゼラトも首を縦に振ってくれよ。オレはさあ、みんなの役に立ちたいんだ。だから力を貸してくれ! オレと部隊(パーティ)を組んでくれよ、オレを男にしてくれ! お願いだ!」  食事用の円卓の、輪切りにした巨木の天板に額を擦りつける勢いで、古代中国の武将もかくやというナマズ髭を生やしたその男、待命家頼稔(たいめいけよりとし)は懇願した。  リウに連れられてやってきた“墜ちてきた者”たちの寄り合い逗留施設――通称“異邦人ギルド”で、ゼラトたちはこの異世界についてのひと通りのレクチャーを受けた。  剣の街エスカリオと呼ばれる居住地を中心に広がる大地は、ふたつの月を従えたこの星の、極地にほど近い座標に浮かぶ島だった。洋上に浮かぶ孤島、ではない。この島は不思議な力――ゼラトたちの世界の常識で言えば神の奇蹟としか言いようのないパワーで、大陸に穿たれている巨大カルデラの上に文字通り浮かんでいる空中の陸地であった。  極地に近いのと、太陽に対して常に一定の角度で傾いている地軸のせいで、エスカリオには朝も昼も訪れなかった。陽光を地平線にのみとどめて、払暁と日没の狭間に存在する永遠の極夜の世界だった。人が住むには不向きな辺境の寒冷地であったが、この浮遊島が発見されてしばらくすると、カルデラの辺縁と島との間に吊り橋が架けられ、少なくない数の者たちが移住を決めたという。そして、島に残されていた遺跡群を利用して人の住む集落が形成され、それが百年あまりの歴史を積み重ねて街と呼ばれる規模のエスカリオへと発展した。  彼らがこの不便な地にこだわり続けた理由はただひとつ。島には、ここでしか採取できない不思議な魔法鉱物・血晶が存在したからであった。効率よく熱量を取り出せるこの有益な鉱物は大陸世界で高値で取り引きされるために、いつしか流れ者や冒険者などの、命の危険を顧みない山師めいた連中が一攫千金を求めて島を訪れるようになった。そうして生活拠点としての需要が生まれ、それを供給する側の者たちも定住して、経済が滞りなく成長するようになったのだという。やがてエスカリオには法による統治機構である王宮騎士団や、アウトローたちが巣くう実質的に治外法権のスラム街が生まれ、複数の勢力が油断なく睨み合う死と隣り合わせの街――力なくば生き残れない“剣の街”の異名が冠されることとなったのだ。  このエスカリオの地に異邦人たちが――リウ、ゼラトたちと同じ科学文明の世界の住人たちが現れるようになって二年近くが経とうとしていた。  これは俗に言う、神隠しのような現象であるらしかった。多くの異邦人は、車や船舶、航空機などで移動している最中に、乗り物ごと異世界へと引きずり込まれていた。別世界の裂け目が街の上空に生じ、例のスクラップ置き場のような一帯に降ってくることから、異邦人は“墜ちてきた者”とも言われている。元の世界では、おそらくは大きな事故に巻き込まれてしまった行方不明者・犠牲者と認識されているのだと思われた。  それだけであるのなら、エスカリオ側から見て異邦人とはただの、異世界からの気の毒な漂流者に過ぎないはずだった。だが、彼らはこの地の勢力間の微妙なバランスを、あっという間に崩壊させるほどの力を備えていた。ゼラトたちが身をもって知った、あの尋常ならざる能力の増幅現象である。ここエスカリオでは、異邦からの来訪者は誰もが超人的な力を授かっていたのだ。  そうした者たちの中でも、ゼラトたちは特殊な部類に属していた。  ほとんどの場合、引き込まれたひとつの乗り物からこの地に降り立つのはひとりであった。それが数百人が乗る旅客機やフェリーであっても、残りの乗客は遺体さえ発見されることはなかった。理由は分からない。エスカリオが異なる次元に存在するとするなら、その次元間の壁を超える時に、見えない網にかかったようにこそぎ落とされてしまったのではないかという説を唱える者もいたが、真偽を確かめる術はなかった。いずれにせよ、あとから不明者が見つかった例は皆無であることから、生存は絶望的だと考えられていた。  ゼラトたちのケースでは、列車の一車両だけがこの“異邦墜ち”現象に見舞われたものと思われた。それでもゼラトと瑪守姉弟、それに土蔵を含めた五人が一時に生き残ったのは奇跡と言えた。全員が武道の選手として心身を鍛錬していたことも無関係ではないのかも知れなかった。  元の世界では平凡な日常を送っていたに過ぎない者までが、エスカリオに生きるベテラン冒険者を凌ぐ戦闘力を備えていたことで、異邦人は少数の集団でありながら、この街でせめぎ合う二大勢力に肩を並べる第三極に一気に躍り出た。既存の勢力――王宮騎士団とスラムの支配組織が互いに牽制し合っていたこともあったが、彼ら異界の者の登場を歓迎し、支援の手を差し伸べてくれる街の住人が少なからずいたことも大きかった。不変の極夜に包まれた街には、変化を求める閉塞感も確かに存在していたのだ。  かつてこの地を開拓しようとした先駆者たちが橋頭堡として建造した砦が改装され、こうして快適な異邦人ギルドの本拠として提供されているのも、彼らの動向に期待の眼差しを向ける者たちがいることの表れであった。  そしてもうふたつ、エスカリオの住人が異邦人を無視できぬ理由が存在する。  ひとつは、ここ数年エスカリオの大いなる脅威となっている、“血統種”なる怪生物の出没であった。大型獣の生命をたちどころに奪うほどの炎や冷気を自在に生み出せる神秘の力・魔法が実在し、その魔法に匹敵する破壊の力を生来体得している魔物という種が数多跳梁するこの世界においても、血統種は突出して異質な存在だった。  血統種に分類される怪物は形状も性質も様々だったが、いずれも別して凶暴であることと、倒しても短時間のうちに再生し、復活する絶対の不死性を有していた。これはその体内に“純血晶”と呼ばれる、桁外れに強大なエネルギーを秘めた血晶を宿しているからであったが、その特殊な魔法鉱物を取り出して血統種に永遠の死を与えることができるのは異邦人だけであったのだ。正確には、異邦人の中でも限られた、“選ばれし者”と呼称される数人にしかできないことだった。  ゼラトたちは、誰もこの能力を備えていなかった。どれだけ武に優れていようとも、血統種と出くわしてしまったなら、“選ばれし者”と行動をともにしない限り息の根を止める方法はない。そしてそれはエスカリオの民にとっても、剣呑な血統種の撃退を異邦人ギルドに依存するしかないことを意味していた。  残るひとつの理由には、この純血晶の使途が関わってくる。  神秘を否定することで発達してきた科学文明に浸かった世界からやって来たゼラトたちにとってはあまりに途方もなく、半信半疑にならざるを得ない話ではあったが、エスカリオとその外側の広大な世界には、神としか表現しようのない三柱の超越存在が君臨して覇権を争っていた。  光の精霊神と、闇を司る魔王、そして中立の調停者たる神竜――それらは創世以来幾度もぶつかり合い、ついには偉大な存在同士が正面から衝突する愚を理解した。最後の戦いを経て、現在は竜神が世界の舵を執る役割を担い、力の大部分を喪失した精霊神と魔王は回復を待ちながら、次の支配権を巡って競い合う適正な手段を模索していたのだという。  そこに、血統種からもたらされる純血晶の秘める、失われた神の力さえも補うであろう膨大なエネルギーが確認された。武力での闘争に懲りた神たちは平和裏に決着をつける方法として、それぞれの現し身となる“器の者”が獲得できた純血晶の数で勝者を決定するという案に合意した。  その器のひとりが、神竜に力を託された異邦人リウであった。さらには、純血晶を“器の者”の誰に捧げるかを決めるのも、それを唯一取り出せる“選ばれし者”ということになる。この異世界の次の神の選定は、異邦より墜ちてきた者たちの決断に委ねられてしまったのだ。  これらが、一介の来訪者に過ぎない異邦人たちが、エスカリオの社会で重要な地位を占めるようになった事情だった。  先刻から異邦人ギルドの居住区にある食堂で開かれている、歓迎の宴の主役であるゼラトと瑪守三姉弟に懸命に頭を下げている待命家頼稔――通称ライネンは、リウを含めて四人しかいない“選ばれし者”のひとりだった。しかしこれまでまともに仲間を募ったことがなく、せっかくの血統種を狩る力を腐らせている怠け者と、異邦人たちの間で陰口を叩かれているようだった。 「なあ、キョウからも口添えしてくれよ。オレの仲間になってやってくれってさあ!」  懇願する様子を観察しながら骨付き肉に囓りついて咀嚼するサテラから、どう都合良く受け取っても脈なしという雰囲気を感じ取り、弱り果てた顔でライネンは傍らの青年に泣きついた。 「泣き落としでパーティに入ってくれというのもどうかと思いますよ、ライネン。それに、新参とは言えこの人たちの実力は本物だ。この僕だって、単独でワイバーンを倒せるようになったのはまだ半年前のことなんです。これだけの逸材となれば、ウチのパーティに参加してもらいたいという気持ちもあるんですよ?」  呆れたように肩を竦め、キョウと呼ばれた優男の青年は続けた。「でも、あなたがやる気を出してくれたのはありがたいことです。血統種を倒せる部隊は多いほうがいい。それだけこのエスカリオで、僕たち異邦人の影響力が増すってことですからね。リウが器の者になり、公正さを欠くとして純血晶の採取ができなくなった今、僕の部隊だけがその務めを担ってるわけですし――」 「ああー、ごめん。役立たずでゴメンったらゴメン!」  キョウにちらりと視線を向けられ、ライネンを挟んで反対側に座る黄色いニット帽の少女が両手を広げて振った。「選ばれし者って言ったってさ、向き不向きがあんじゃない? 適材適所って言うかさぁ。あたしらのパーティはホンット弱っちくって、血統種相手にするなんて無理なんだよねー」  少女の名前は来栖(くるす)アンナ、キョウは惟光(これみつ)饗――ふたりはギルドでは古株になる団員で、両者とも“選ばれし者”だった。つまりこの時、ゼラトたちの前に純血晶を抽出する稀少な能力を持つ異邦人が三人揃っている、ということになる。  しかし彼らは対照的だった。キョウが戦闘に特化して血統種狩りに活躍するパーティを率いているのに対し、アンナはもっぱら参謀役・相談役としてリウをサポートする役割を果たしている。一番の年長者であるライネンに至っては、自他ともに認める役立たずとして引きこもりのようにエスカリオの生活を送っていたのだ。 「それじゃいっそのこと、この場でみなさんに選んでもらいましょうか」  軽く咳払いをして、キョウが切り出した。「どのみちこの三人の誰かとパーティを組まなければ血統種は倒せないんですから。もしアンナと組むと言うなら、それはそれでチームが機能するようになるでしょうし。どうです?」 「どうするんじゃ、姉者? モガ?」  取り分けた料理を、皿を持ち上げて直接口に放り込みながらギガスが訊ねる。「俺はどのみち戦うことしかできん。その血統種とやらを倒すなら、コレミツの言う通り誰かと組まねばならんのだろ?」  皿に載っていた骨までもバリンボリンと噛み砕くギガスの変貌した姿は、見慣れてみれば前よりも親しみを覚える滑稽さが加わっていた。だが、その身体能力や頑健さは凄まじいまでに向上している。以前のギガスが岩であるとするなら、今は精製して鍛造した鋼の塊のようであった。小山の如き巨体を圧縮し、さらに質量を加えて密度を高めた不壊の肉体――全身を鎧うその筋肉は極太のワイヤーのようで、黒光りする肌はそれ自体が装甲板とさえ見える。さながら装甲車、否、戦車を彷彿とさせる威容であった。  ドワーフ――それがエスカリオでのギガスが獲得した姿であった。この世界では、人類として文明的生活を送っているのは人間だけではない。種として発生した源も、歳月を経て進化と洗練を重ねた過程も異なる複数の種族が、互いの文化を受け継ぎながら共存している。ドワーフ族はその中でも、地の底を住居として好み、強靱な肉体を何より重視して代を重ねてきた種族であった。  異邦人の多くを見舞うのが、この変身現象だった。ゼラトやサテラのように、故郷の世界そのままの姿を保っているほうが稀で、見回せばギルドはちょっとした仮装大会の会場のようにも思える。未だにエスカリオを受け容れられずこの場に顔を出していない土蔵――この世界では結局、メガロが呼び間違えたドグラという徒名が定着してしまっている――は、長命で見目麗しい、知に秀でた種族・エルフの特質を得たはずであったが、少なくとも元々の姿の特徴を大きく捨て去ることはないようであった。  逆に、人のままでこの地に降り立った者の中からしか、“選ばれし者”は出てきていない。そのためゼラトとサテラは新たな純血晶の抽出者として期待されたが、リウとともに行った簡単なテストでその能力が備わっていないことはすぐに明らかとなった。 「姉さんかゼラトくんがその“選ばれし者”だったら、悩むまでもないんだけどね」  椅子の上に膝を抱えて器用に座り、メガロが前後に身体を揺する。瑪守の末弟が変身したのは、元の世界でなら猫に相当する動物から進化したとも、古代に魔法によって生み出されたとも言われる種族・ネイである。聴覚や嗅覚に優れ、驚くべき敏捷性とバランス感覚を備えた肉体だったが、長い尻尾までがついていることもあって、メガロ本人は気に入ってはいない様子だった。 「そうだね、純血晶集めか――」  サテラは拳で頬を支えて思案顔をする。「それを捧げて力を蓄えれば、“器の者”が神の助けを受けて、私たちの世界へ帰る“孔”を開いてくれる――この話が本当なら、なんとしても血統種を狩らなきゃならないけど……」  異邦人全員での、元の世界への帰還――それこそが異邦人ギルドの運営目的であり、二年前の設立時からの悲願でもあった。立ち上げのメンバーとして団長を務めていたトウジという人物は、しばらく前に”選ばれし者”としての討伐遠征中に消息を絶ってしまったと伝えられている。主要団員は決してそうは認めず、リウも頑として副団長のままリーダーの役割を果たしているが、すでにこの世にないであろうことは動かせぬ事実だった。そのトウジが願ってやまなかった望郷の想い――それを背負って、リウはギルドの活動方針を定めていた。  “異邦墜ち”に巻き込まれた際も落ち着き払い、ともすれば命にさえ頓着していないように見えるサテラであったが、帰還の目が現実にあるとするならば諦めるつもりはないようだった。真剣に、故郷への生還に繋がる最善手を吟味している。  普通に考えるなら、キョウの部隊に加わるのが順当であるように思える。戦闘に秀で、血統種狩りの経験も積んでいるキョウにサテラたちの力が上乗せされれば、これまで以上に効率よく純血晶を集められるだろう。  あるいは、知識はあっても戦いを不得手とするアンナのチームに入り、その不安要素を払拭してしまうという考えもある。血統種を倒せる部隊がふたつになれば、ひとつのパーティを補強するよりも効果的となるかも知れない。  第三の選択肢となるライネンとだけは、組むメリットがないように思えた。今までの活動実績を考えると、ライネンの知識と経験はゼラトやサテラたちと同等か、もしかすると下回っている可能性すらあった。ここにきてやる気を出していること自体が奇妙とさえ感じられる。  数秒の沈黙ののち、サテラは自分の中を覗き込む目つきから戻ってきた。そして巴旦杏(アーモンド)型の目をゼラトに向ける。ギガスとメガロも、その動きにつられて“選ばれし者”三人もゼラトを見た。 「決めた。ゼラト、君の意見を聞こう」 「決まってないじゃないか」  唐突に決断の責任を放って寄越され、ゼラトは思わず仏頂面になる。 「君の方針に従うと決めた。ここエスカリオでは君のほうが、私よりも正しい流れを掴み取れるような気がするんだよ」 「弱ったな、まったく……」  温度差のある六対の瞳を注がれ、温かな野菜スープのボウルを置いてゼラトは頭を掻いた。  ただ、ゼラトにしても活動指針をサテラに丸投げしておけばいいと考えていたわけではない。結局のところ、自分のことは自分で決めるべきなのだ。とりわけこんな異境にあっては。  良い機会を与えられたのだと思い直し、ゼラトは自分に向けられたそれぞれの目を見つめ返し、その奥にある思惑を読み取ろうと試みる。  ギガスは真っ直ぐそのまま、サテラの言う通りに従うという意志が分かりやすく見て取れた。メガロも同様だったが、こちらは視線がぶつかるとすぐに逸らされてしまった。エスカリオに来て数日、ややよそよそしい印象があったことから、あまり好かれてはいないのかも知れないとゼラトは思う。思い返せば、メガロは列車内でも友好的に振る舞いながら、実質的にはインターハイの挑発にやって来ていたのであった。  アンナからは、いかにも選んで欲しくなさそうな気配が窺えた。彼女は徹底して荒事が苦手な文官タイプであり、たとえゼラトたちが仲間に加わったとしても、血統種狩りに積極的に参加するのは御免被りたいと考えているようだった。サテラはポーカーフェイスで、言葉にした以上の意図があるのかさえ分からない。  キョウはと言えば、自分が選ばれると信じて疑わない、自信満々の笑みを浮かべていた。ただ、少し引っかかるものを感じ、ゼラトはそれがどこから来るものなのかを暫し考える。唐突にその理由が閃いた。選ばれると思っていながらもキョウには「瑪守姉弟とゼラトという戦力を手に入れたら、これまで手が出せなかったあの地を探索したい」といった類いの、先への意志が微塵も感じられなかった。選ばれることだけが目的であるような、弛緩した軽い気配がそこにある。  そして泣きつきそうな情けない顔をしたライネンの、その目を覗いた瞬間にゼラトは気づく。ライネンは愛想笑いなどしていない。懇願もしていない。オレを選べ――そう告げる強い意志の光が、瞳の奥に静かに瞬いていた。  そう気づいた時、ゼラトはサテラの真意を悟る。彼女は「決めた」と言った。サテラがライネンの発するこのサインに気づかないはずがない。彼女は決めているのだ。さらに、これはゼラトを試しているのでもない。ゼラトが適当に決め、自分はそれに従うと言った以上、決定を受け容れざるを得ないという形が欲しいのだ。  理由は分からないが、責任逃れとか、そんなレベルの話ではなさそうだった。ならば、ゼラトがこれを拒む理由もない。何より、昼行灯を装うライネンの中身をもう少し知りたいという欲求が強くもたげてきていた。 「俺たちを最大限に役立てるなら、まっさらなところ――ライネンと組むのがいいんじゃないか?」 「よし、決まった」  間髪を容れず、否も応も言わせない凜然たる口調でサテラが決定を告げた。「ライネン喜べ。君を男にしてやるぞ」 「いいのかい! やったあ!」 「姉さん……言い回しを少し考えて……」 「がはは、よしよし。悩み事はなくなったな! 飯に戻る!」 「ふえー、助かった。あたしのトコに来られたら、きっとついてけないくらいスパルタ訓練されちゃいそうだしさぁ。良かったねー、ライネン。ちゃんと働いてよ〜?」  この時、小さく「馬鹿な」とキョウが言いかけたのをゼラトは見逃さなかった。が、そ知らぬ顔で気づかなかった風を装う。キョウはすぐに人当たりの良い笑顔を浮かべて、祝福を口にした。 「そうですね、ライネンにも働いてもらったほうがギルドのためになる。トウジが帰ってきたら、きっと驚くでしょうね」 「ああ……頑張るぞ、オレは。今日はライネン隊の結成記念日だ!」  ギルド団長のトウジの名をキョウが口にした瞬間、ライネンは少しだけ悲しげな表情を見せた。死者は還らないと、そう黙祷するように。 「悪く思わないでくれ、コレミツ。私も悩んだが、自分では何が一番良いのか決めきれなかった。ゼラトのおかげで拾った命だし、今回はゼラトが決めた通りにする。ただ、いずれはそちらの世話になることもあるかも知れない」 「そんな、気にしないでくださいよ。僕はあなたたちの選択肢を増やすために参加したに過ぎないんですから。それでは、失礼――」 「ライネン、はしゃいで飲み過ぎないでよ〜? 他はみんな未成年……ま、いっか。別にここは日本の法律が適用されるワケじゃないし。宴の主役たちは飲んで食べて騒ぐがいいよ。ほいじゃあたしもドロン! 忍者のスキルは持ってないけどね〜」  キョウとアンナが円卓から去り、用があったのか居住区から姿を消した。ゼラトは今の一幕の意図をサテラに訊ねたかったが、この場は相応しくないと判断し、口を開かない。サテラが席を離れないのも、今は語るべきではないとする考えを示しているのだろう。  と、いきなり腕にぶら下がる者がいて、油断していたゼラトは椅子から転げ落ちそうになった。  持ち堪え、まだしがみついて放さない相手を睨む。至近距離に、子どものような少女の屈託のない笑顔があった。 「おっす、ゼラトー! これからはパーティの仲間だね! よろしくよろしく!」 「仲間――?」  少女は、中学年の小学生程度にしか見えない体格をしていた。しかし、人間の子どもではない。彼女はミグミィ――この世界に住む人類種族のひとつで、非力でありながらも魔法、とりわけ治癒の力を扱う技能に長じたものたちだった。 「お初だね! ウチはライネンの、たったひとりの仲間だった油雨霖(あぶらめりん)。リンって呼びたいところだろうけど、メリンって呼んでね! よろしく!」 「ええ? こんな子どももメンバーなの?」 「お黙んなさい」  あからさまな不安と非難を口にしたメガロに、ゼラトの腕から手を放したメリンは短めの指を突きつける。「これでも十六歳、確かあなたと同い年よ! それから、ウチはクレリックだから、絶対にみんなのお役に立ちます。二重の意味で癒やし役、なので仲良くしてね、よろしく!」 「ええ……同い年なんだ……」 「ああ、みんな、紹介が遅れちまったけど――」  慌てて立ち上がり、酒の酔いが回ったのかひとしきりふらついてからライネンはメリンを手招きした。寄ってきて得意満面に胸を張るメリンの頭をぽんぽんと叩く。 「こう見えてメリンは優秀な癒やし手なんだ。ちょっとした傷ならすぐに止血してくれるし、おっかない毒だってちょいちょいと消してくれる。頼りになるぞこの娘は!」 「頼ってね! あと、守ってね!」 「おう、ギルドのみんな、聞いてくれ!」  ライネンが声を張り上げ、食堂に残っていたすべての異邦人たちの注視を浴びる。 「サテラ、ゼラト、ギガス、メガロがオレに力を貸してくれることになった! メリンも仲間になって、これで六人の部隊になった! 明日からさっそく、やるぞオレたちは! 祈ってくれみんな、ライネン隊に栄光あれと!」 「栄光あれ!」  働かない“選ばれし者”を良く思っていなかった者も、ライネンがやる気になったと聞けば悪い気分にはならない。異邦人たちは改めて杯を打ち鳴らし、新参者の歓迎と壮行の宴を再開する。  主にライネンとメリン、時々ギガスが加わった騒ぎは夜半まで続き、結局ゼラトはこの日サテラにも、ライネンにもことの真相を確かめられぬままに終わった。 ――― 三章へ続く